前回は「GDP(国内総生産)」を取り上げ、お金の取引量(売買高)だけを追いかける社会のベクトルが、必ずしも私たちの幸せや豊かさに直結しないことを確認しました。
では、なぜ私たちはこれほどまでに「お金による取引」や「数字」に縛られてしまうのでしょうか。
その背景には、私たちが無意識に抱いている「価格が高いものほど、価値が高いはずだ」という強い思い込みが存在しています。
今回は、この「価格」と「価値」の関係性を紐解いていきます。一見すると同じように思えるこの2つを切り離して観ることで、私たちが社会システムの中で何に惑わされていたのかが見えてきます。
前回の記事はこちら ↓

社会システムを観る #3産業の限界と「作られた経済成長」
「価格が高い=価値が高い」という錯覚
かつての日本は、GDPの伸びとともに「豊かさが増している」という実感がありました。
戦後の日本は、GDPがぐんぐん伸びていきました。1955年頃は10兆円前後だったGDPが、2000年には500兆円を超え、名目で50倍以上になっています。物価の影響を除いた実質GDPで見ても、十数倍の伸びです。国民も、豊かさが増大していると実感していたことと思います。
しかし、最近は「失われた20年」「失われた30年」と言われ、日本は給料が増えていない、とも言われます。経済成長を実感しにくい近年だった、という方も多いのではないでしょうか。
実は、これにはカラクリがあります。なぜ経済成長は止まってしまったのか。そして、なぜ成長していないにもかかわらず、社会は今も「経済成長(GDP拡大)」を追い求め続けているのか。
今回は、その裏側にある「産業構造の限界」と「金利という仕組み」を紐解いていきます。
1. モノが行き渡ると、一次・二次産業のGDPは限界を迎える
経済学では、産業を「一次産業(農林水産業)」「二次産業(製造業・工業)」「三次産業(サービス業など)」に分類します。
まず、社会の基本である一次産業・二次産業がどのような限界を迎えるのかを観てみましょう。
一次産業:食べられる量には、限界がある
一次産業は、農業、漁業など、その多くが基本的に「食」に関わるものです。(鉱業や林業も一次産業ではあります。)
一次産業の需要の上限は、シンプルに「人口(=人間の胃袋の数)」で決まります。一人の人間が食べられる量には限界があるからです。
1日3食であれば、人口1億人の国であれば、年間約3億食が上限です。仮に1食1000円とすれば、年間の売買高は約110兆円が物理的な限界となります。どれほど美味しい・高級な食材になろうとも、胃袋の数が決まっている以上、劇的な市場拡大は起こりません。
前回お話ししたように、価値と価格は関係がありません。1食の内容がどれほど贅沢(高い価値)になっても、価格が1食1000円のままなら、年110兆円が限界であることは変わらないのです。
二次産業:普及するまでは伸びて、普及し終わると止まる
次は、二次産業、工業です。工業の発達によって、GDPは飛躍的に伸びていきます。
- 10軒に1軒しか自家用車を持っていなかったとき ➡️ 1台300万円なら、GDPは300万円
- 10軒すべてが持てるようになったとき ➡️ GDPは3000万円
こうしてGDPは増えますし、豊かさの実感ともかなり密接にリンクしていたことが想像できます。昭和の三種の神器(洗濯機、冷蔵庫、白黒テレビ)、新・三種の神器(カー、クーラー、カラーテレビ)は、まさに二次産業です。これらが家庭に普及していくことで、GDPはどんどん伸びました。(そのうえ、出生率が高く人口も増えていたので、GDPはより伸びやすい状況でした。)
しかし、工業製品は「普及し終わる」ということが起きます。そして、普及し終わると、買い替え需要しかなくなります。買い替えだけになったら、GDPは伸びなくなります。
- 車1台×4000万世帯 ➡️ 4000万台が限界
- 10年で買い替えるなら ➡️ 年400万台の販売が限界
- 1台300万円なら ➡️ 年12兆円ほどのGDPが限界
ちなみに「300万円で買える車の性能」は、どんどん上がっていきます。安全性能、走行の快適さ、燃費……さまざまな性能(価値)が上がっていきますが、価格は変わりません。科学技術は「通貨の発行量」とは関係なく伸び続けるのに対して、価格は「通貨の発行量」に制限を受けるからです。
モノが溢れるような社会になると、一次産業と二次産業のGDPは限界を迎えます。GDPが伸びている間は、豊かさが増えていると実感できて、十分に豊かになったらGDPも頭打ちになる。それが、一次産業・二次産業の世界です。
三次産業:GDPが増えても、豊かさが増えるとは限らない
そして、三次産業があります。サービス業であり、非常に幅広い業種がここに属します。
三次産業の特徴は、「GDPが増えるほど、国民が豊かさを感じられるとは限らない」ということです。第1回で観たように、
- 公園でのんびりする(GDPゼロ)のと、遊園地で遊ぶ(GDP拡大)のと、どちらが豊かかは、人による
- 家庭教師を雇う(GDP拡大)のと、親が子供の勉強を見る(GDPゼロ)のと、どちらが豊かかは、人による
からです。
ですから、一次産業・二次産業の基本が満たされ、三次産業が中心になった社会では、「GDPの増大だけを追求する」ことは、とてもナンセンスになってきます。
それでも、社会はGDPを増やす方向に動いてしまう
第三次産業の段階まで来ると、「GDPが増えたほうが豊かなのか、増えなくても豊かなのか」が分からない世界に入っていきます。とにかくGDPが増えればよい、という世界ではなくなるのです。
ところが今の社会システムでは、「どちらでもいいよね」とはならず、GDPが増える方向に社会が動いてしまっています。
なぜでしょうか。理由の一つとして、私は「金利」の存在が大きいと考えています(あくまで一つの見方です)。
お金は「借金」と「金利」とともに生まれる
現代の経済システム(中央銀行システム)では、お金(通貨)は「誰かの借金」や「金利」を伴って市場に供給されます。
100万円を借りたら、110万円にして返さなければならない。社会全体で見れば、金利の分だけお金を増やし続けなければ返済が回らなくなります。この構造が、社会全体に「常に経済成長(GDP増大)をし続けよ」という強い圧力をかけ続けているのです。
金利システムが機能した時代、しにくくなった時代
- 人口が増え、工場や道路の建設が必要だった時代
設備投資のために借金をし、モノを作れば売れたため、金利システムは順調に機能しました。 - インフラが整い、モノが行き渡った現代
新たにお金を借りてまで工場を建てる必要がなくなります。 - 三次産業が中心になり、人口が減り始めた今
お金を借りて何かを作り、売って返す、という循環そのものが成り立ちにくくなっています。
ゼロ金利は「借りる人がいない」サイン
人口が増えていて、一次産業・二次産業に成長の余地があるうちは、中央銀行が金利をつけて貨幣を供給するシステムは、それほど大きな問題を起こしません。
しかし、三次産業の段階に入り、人口の増加が止まると、この仕組みは難しくなってきたはずです。日本の合計特殊出生率が2を下回ったのは、1975年のことです。
長く続いた「ゼロ金利政策」も、こう考えると納得がいきます。ゼロ金利とは、いわば「お金を借りてくれる人がいない」ということです。二次産業の成長が必要だった時代には、「車を作る工場を建てるから、設備投資のためにお金を貸してほしい」という会社がたくさんありました。
しかし、一次・二次産業が飽和すると、その必要性は薄れます。道路はだいたい敷き終わった。国民が一家に一台車を持てるだけの生産設備もある。となれば、設備投資のための借入は減っていきます。
借入が減るということは、社会に流通するお金の総量が増えにくくなる、ということでもあります。
無理に押し上げられるGDP
それにもかかわらず、金利を前提とした国家経営や金融システムを維持しようとするため、本来なら増えなくてもよいはずのGDPを、「あらゆるもののサービス化・商品化」によって無理やり押し上げようとする歪みが生じている。私はそう捉えています。
GDPが増えてはいけないわけではありません。けれど、別に増えなくても構わない。むしろ人口減少の段階に入るのであれば、GDPは減少するのが自然なのではないか、ということです。
あなたは、GDPが増えなくても豊かだと思える社会を、想像できるでしょうか?
総括
システムの圧力を「よく観る」
- 社会が豊かになり、モノが行き渡ったからこそ、GDPは成長しにくくなる
- それでも社会が成長を求めて急き立てられるのは「金利という仕組み」が存在するから
この構造を理解すると、「経済が成長していないからダメだ」「もっと稼いで買わなければならない」という焦りや違和感の正体が見えてきます。
私たちは今、過去の成長モデルの延長線上で生きるのではなく、「すでに十分豊かな社会で、このシステムとどう付き合っていくか」を捉え直す局面に来ているのかもしれません。
(次回は、このシステムの中で技術革新(AIやロボットなど)が起きたとき、なぜ人々が豊かになるどころか「失業の不安」を抱えてしまうのか――「特許と富の移転」というテーマを観ていきます。)
連載記事一覧(バックナンバー)
第1回:GDPが増えても、私たちが幸せになるとは限らない理由

第2回:「高いもの=価値がある」という錯覚を解き明かす

第3回:産業の限界と「作られた経済成長」【今回】

