本当にこれからどんな未来がやってくるか、分かりません。2026年11月現在でも、かなり混沌としていると思います。
AIを利用したサイバー攻撃は常態化してしまった感じですが、いつ何が悪意をもってハッキングされるか分かったものではありません。ネパールの大災害のような、過去にない天災がどんどん起きるかもしれません。気候変動も待ったなしだという人は大勢います。
為替もこれからどうなるか分かりませんが、円安物価高はすでに生活を直撃しています。戦争だって、いつどのように起こるか分かりません。
不安になろうと思えば、いくらでも不安になれる要素が転がっている。それが、今のこの混沌とした時期だと思います。
今回は、そんな時代に私が支えにしている「大安心」という考え方を書いてみます。
理屈の上の話なので、「頭では分かるけど、心がついてこない」の典型かもしれません。それでも、どこかのタイミングで「そういえば、そんな言葉があったような……」と、杖のように思い出してもらえたらうれしいです。
前編:不安が消えない時代に「大安心」という考え方
心は、「安心」より「生存」に向いている
不安になろうと思えば、いくらでも不安になれてしまう。しかし、これは私たちが弱いからではないのかもしれません。
人間の心はそもそも、「安心」よりも「生存」のために最適化されているところがあります。つまり、生き延びるためにリスクを察知するようにできています。
ただ、今のような混沌とした時期には、その傾向をそのまま放置しておくと「不安ばかりがどんどん大きくなる」ということにもなりかねません。

不安を無視して無理やりポジティブ思考にしようとしても、いざ逆風が現実になった時に心がポキっと折れてしまう。では、私たちはこのネガティブな感情や不安と、どう向き合えばいいのでしょうか?
人はどういうときに「不安」と思い、どういうときに「安心」を感じるのか
一般的に安心というのは、「この人は絶対に裏切らないから安心」「売上が確定しているから安心」というように、未来が望む方向に確定している(と思っている)ときに持つものだと思います。
逆に不安は、「ひどいことになってしまうかもしれない」と、未来が望まない方向にいく可能性を感じているときに持つものだと思います。
「いい方向に行くかもしれないし、悪い方向に行くかもしれないし、分からない」というときも、不安になることが多いでしょう。
ただ、未来はそもそも不確実なものです。
いつ地震が来るか分からないし、いつ交通事故に遭うかも分からない。「分からない」というのが未来なわけです。未来が見えてしまう、あるいは確定してしまっている小説などもたくさんありますが、それはそれで、つまらない人生になってしまうだろうと思います。
とはいえ、あまりにも不確実性が高かったり、「悪くなっていく可能性が高そう」だったりすれば、不安になりますし、人としてはもちろん避けたいことです。
VUCAとかBANIの時代と言われて久しいですが、「どうなることやら」「こりゃ、どんどんひどくなりそうだ」という感じが、本当に強まっているのではないでしょうか。
秩序が保たれて未来が予測可能であれば、「では自分はこうすればいい」と、自力で安心を増やしていくこともできます。
でも、あまりに不確実性が高かったり、悪化していく可能性が高かったりすると、「自分ではどうしようもない」という、不安とは別の無力感も湧いてきます。

ネガティブな感情を消し去ることが、本当に「豊かな人生」なのか?
少し話はかわりますが、気になって、「安心」を辞書で調べてみました。
仏教用語(あんじん/あんしん)
信心を確立し、煩悩や迷いを離れて心が安らかで動揺しない境地。
この「あんじん」は、私が「大安心」という言葉で言いたいことに近い気がします。
その説明に入る前に、まず「感情」について考えてみたいと思います。
感情は、ポジティブな感情とネガティブな感情に分類できます。そして人間は、できればネガティブな感情は感じたくないものだと思います。
悲しい、辛い、絶望、苦しい、悔しい、腹立たしい、寂しい、虚無感、無力感、イライラする、落ち込む……。こうしたネガティブな感情は、できるだけ感じたくない。
楽しい、嬉しい、幸せだ、リラックスしている、満たされている、ありがたい、落ち着いている……。そうしたポジティブな状態を続けたい。それが幸せである、と。
ところが、実際にネガティブな感情を人生から消し去れたらよいのかというと、ちょっと考えどころです。
おばあちゃんが亡くなったとき、泣いて泣いて、泣いて仕方がない、ということがあります。悲しい。寂しい。それ以外にも様々な感情が去来します。それはある意味、仕方のないことです。
どこで教わったかは忘れてしまったのですが、「人が亡くなって悲しいのは、その人をそれだけ愛していた証拠」というようなことを聞いた記憶があります。
人はいつか死ぬ以上、愛する人が先に亡くなれば、悲しいとか寂しいといった感情を味わわないわけにはいきません。
愛する人が先立ったときに、悲しみを一切感じないようなロボットのような人間でありたいでしょうか。
輪廻転生を信じている人たちであれば、死は肉体からの卒業で、めでたいこと、喜ばしいことでもあるかもしれません。しかし、肉体を持ったその人と話すことも触れ合うこともできなくなったという事実には、一抹の寂しさを感じるものだろうと思います。
ネガティブな感情を感じないことが、本当に良い人生、豊かな人生につながるのか。一考の余地がありそうです。
怒り、悲しみ、羨望、不安、愛を「5つの自然な感情」と呼ぶ人たちがいます。「悔しいから頑張れた」というハングリー精神の価値を、積極的に認める人たちもいます。「どん底に落ちて、自分が愛されていることに気づいた」というように、ネガティブが極まって反転する経験を語る人たちもいます。
果たして、「ネガティブな感情は一切感じたくない」とネガティブな感情を拒絶することは、いいことなのでしょうか。自然なことなのでしょうか。それが、豊かな人生につながるのでしょうか。
では、「ネガティブな感情も含めて、どんな感情も生じうる」と受け入れたとき、私たちの心には何が起こるのでしょうか。続く後編は、この混沌とした時代の中で私たちが心に静けさを取り戻すための「大安心(だいあんしん)」という考え方について、そして日常でできる実践について書いていきたいと思います。
後編:「どれもOK」と思えたとき、未来への不安は消えた
私が考える「大安心」とは?
私が考える大安心とは、
「どんな感情も生じうる」と受け入れて、その上で「様々な感情を感じること自体が、人生の豊かさそのものである」と捉えること
です。
もちろん私だって、毎日ネガティブな感情ばかりであればしんどいですし、ごめんこうむりたいのが本音です。
しかし、生きていて、悲しいこと、辛いこと、悔しいことを一切排除しようというのは、現実的にかなり難しいですし、前編で見たように、それが本当に豊かで幸せなことなのかも、よく分かりません。
これは、あくまで個人的な実体験です(「個人的な実体験の価値」については、またどこかで書けたらと思っています)。
ネガティブな感情を感じること、もう一歩踏み込んで言うと、ネガティブな感情を感じることになる出来事に出くわすことを「それもあり」としたとき、自分でも驚くほどのリラックス感が訪れました。
どんな感情も受け入れる──「大安心」というアプローチ
私は一応経営者ですが、たとえば「倒産する」ということ。もちろん、倒産はしたくありません。倒産しないように、日々頑張ってもいます。しかし、人事を尽くしても天命が「倒産」なのであれば、それはそれとして受け入れようと思っています。
これは、「倒産してもどうでもいい」という無責任や無気力ではありません。倒産してしまったら、悲しい、悔しい、情けない、申し訳ない……。そうした気持ちを味わわざるを得ない。そのことを受け入れる、ということです。
繰り返しますが、そんなことは味わいたくありませんし、そうならないよう努力はします。それでも、人事を尽くしてなお、どうにもならないことはあります。
経営と倒産なら、「いやいや、もっと頑張れよ」という意見も多いかもしれません。では、オリンピック選手ならどうでしょう。金メダルを目指して4年間頑張ったけれど、銀メダルだった。そういうことは、どうしても起こりえます。
そこで「悔しい」という感情を味わうこともあるでしょう。
もし、未来において絶対に悔しい思いをしたくないのなら、金メダルを目指して頑張ることもできなくなってしまいます。未来は、不確実だからです。

どちらも、どれも、OK
未来が素晴らしいことばかり、幸せなことばかりなら、それはもちろん嬉しいことです。でも、大好きなおばあちゃんが亡くなることもあるし、必死に努力してもメダルに届かないこともあるし、地震が襲ってくることもあるし、試練がやってくることもあります。
そんなときに、「楽に幸せが続いてもいいし、試練が来て頑張ることになってもいい」「どちらもOK」「どれもOK」と思えていたら、未来への不安は、ある意味なくなります。それが、大安心です。
もう一度、辞書に戻ってみます。
仏教用語(あんじん/あんしん)
信心を確立し、煩悩や迷いを離れて心が安らかで動揺しない境地。
「煩悩や迷いを離れて」いるかどうかは、ちょっと分かりません。私には煩悩もあるし、迷いもあります。
でも、「心が安らかで動揺しない境地」という意味でなら、順調でもいいし、逆風が来てもいい、と思えているときは、たしかに心が安らかで動揺しない感じがします。
逆風は来ないでほしい。来てしまったらどうしよう……とオタオタして、不安になって、動揺してしまう。それが、安心から離れてしまう状態です。
「頑張っていても、逆風が来るときはあるよね。予想どおり、期待どおりにならないこともあるよね。まあ、そのときはそのとき、また頑張りましょう」。
ある意味、開き直ること。それが大安心です。
混沌とした時代に、どう過ごすか
冒頭にも書いたとおり、これからどんな未来がやってくるか、本当に分かりません。AI、気候変動、紛争、暴動……。不安になろうと思えば、いくらでも不安になれる要素が転がっているのが、今のこの時期です。
不安を無視したり、抑圧したりして、無理やりポジティブ思考になろうとするのも、違うし、無理があると思います。無理やりのポジティブ思考でいると、いざ逆風が現実になったとき、心がポキっと折れてしまうものです。
そうではなくて、
「大変な時代だなぁ」
「望まないようなことも起こるかもしれないなぁ」
「そうなったらそうなったで、そのとき対処するしかないなぁ」
「まぁでも、先々のことは分からないし、コントロールできないことも多いから、今日を大切にしよう」
「自分ができることを大切にしよう」
そんなふうに思えたら、この混沌とした時代を、少し過ごしやすくなるかもしれません。私はそうしようと思っています。
不安30:ポジティブ70に整える
前編で書いたとおり、人間の心は「生存」のために最適化されているので、思考を放置していると、不安ばかりが大きくなりがちです。

だからこそ、「不安を感じている自分」もそれはそれでOKとしつつ、日々の喜び、感謝、楽しさ、見出している希望にも、意識的にフォーカスすることが大事だと思います。
イメージとしては、放っておくと「不安99:ポジティブ1」になってしまうところを、意識して「不安30:ポジティブ70」くらいに調整する、ということです。
「ポジティブにフォーカスするとよい」という研究や論文は、たくさんあります。大切なのは、それを実践していくことだと思います。
私自身も、思考を野放しにして不安だらけになってしまったので、日記をきちんと再開しました。最近は、日記にポジティブなことも意図的に書き出すよう、習慣化しています。おかげで、自分の中のバランスも、ずいぶんよくなってきました。
総括
前編と後編で、「大安心」という考え方を書いてきました。最後に、要点を整理します。
- 不安になるのは、心が正常に働いている証拠です。 人の心は「安心」よりも「生存」に最適化されているので、混沌とした時代には、放っておくと不安が膨らみます。
- ネガティブな感情を、人生から消し去る必要はありません。 悲しみは愛した証であり、悔しさは本気で挑んだ証でもあります。感情を感じること自体が、人生の豊かさそのものです。
- 「どれもOK」と思えたとき、未来への不安は、ある意味なくなります。 順調でもいいし、逆風が来てもいい。そのときはそのとき、また頑張ればいい。これが大安心です。
- ただし、無理やりのポジティブ思考ではありません。 不安を抑圧せず、不安を感じている自分もOKとしながら、日々の喜びや感謝にも意識的にフォーカスします。不安30:ポジティブ70くらいを目安に調整してみてください。
観塾では、自分の外側(社会システムや時代の流れ)と、自分の内側(感情や価値観)の両方を「よく観る」ことを大切にしています。
外側の世界は、私たちにはコントロールできないことだらけです。AIも、気候変動も、為替も、私ひとりの力では動かせません。一方で、そうした出来事に対して、自分の内側にどんな感情が湧き、それをどう受けとめるかは、自分で観ることができます。
外側をよく観て、内側もよく観る。そのうえで、「今日を大切にしよう」「自分ができることを大切にしよう」と足元に戻る。それが、混沌とした時代を、本質的に豊かに生きていくための土台になると考えています。
大変なことも起こるかもしれません。でも、そのときはそのとき。ひとりで抱え込まず、手を取り合って、一緒に乗り越えていきましょう。
観塾は、そんな仲間が集まる学びの場でありたいと思っています。

