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能力に差がある(上下がある)と敬意を払うは両立するのか

見下したくないって言ったじゃないですか、僕。見下したくないし、見下されたくないって言ったんですけど、えっと、敬意を払いたいなって今思いましたね。だから、なんかやっぱその上下関係、できる、できないがあるのはめっちゃ分かるんですけど、別にできない子に対し、できない人に対して敬意を払うことは全然できるわけで。
(※この探究のきっかけの投稿も)私立におくこと自体は全然否定せずに、ただその私立にいく理由として、公立にいく子を見下すのは良くないんじゃないかみたいな投稿だったんですよね。で、それもやっぱりたぶんニュアンスとしては、公立にいく子に対する敬意があれば、別に自分がどういう道を選んでもいいんじゃないかみたいな。見下すって言葉が、ちょっとなんかややこしくしてるような気がしましたね、今。
※公立の学校が荒れてるから私立の学校に通わせるみたいな考え方は、公立の学校を見下しているのではないかという投稿がちょっと炎上していた
いや、そうだと思います。見下されてる感とか、見下してる感とか、みんなそれぞれ、結構あるんだと思います。

そうですね。ま、それはみんなそれぞれあるだろうけど。自分のやり方としては、ちゃんといろんな人に敬意払えたらいいなっていうのが、できてるかできてないかは別にして、っていうのがあるんだな、ってなんか今喋りながら思いました。
言葉としては多分すごい矛盾した感じに聞こえちゃう気がするんですけど、「下に見てる」っていうことと「敬意を払っている」っていうのって、それ並べたら「え、下に見ているんですか?敬意を払っているんですか?矛盾してますよね」と言われちゃいそうじゃないですか?
でも、能力的には差があって、敬意を払っているとは別に、下には見ているもあるんですね。だから、私は、そういう状況には全然矛盾を感じないんです。

え、もう1回言ってください。「下には見てるけど、敬意は払ってます」は、矛盾してない?
矛盾していません。

え、見下しているけど敬意を払ってるは矛盾しません?
それは、矛盾してる気がします。

ですよね。なんか結構僕、今思ったのが、能力として高い低いは当然あるんですけど、人として高い低いはないような感じがすると思っていて。だから人格否定しちゃうとそれは見下しになるけど、能力が低くても人としてちゃんと敬意を払えれば、それはなんか両立するみたいな感触は僕の中にあるんですけど。
それで言うと「人として」とか「人格」って言ってるものも、たぶん解像度が低いと思います。あの人は人格者だみたいにいったりもすると思うんですけど、それはたぶん能力を示しちゃってるところがあるように思います。

そうですよね。確かに………。
見下すや敬意についての石川の考え方としては
私は、「根本的に命は全て尊い」と、まず思っています。全ての命は尊いとは思ってるんですけど、「人格的に平等」みたいな表現は、たぶんあまり使わないです。というのは、「人格」という言葉が能力的なニュアンスを含むなと、私は結構思ってるので。どちらかというと、「みんな、その人なりに最大限一生懸命生きてるよね」みたいに思っているというのが近いかもしれません。
僕が例えば年収1000万で、年収300万の人がいて、僕から見ると、この人が300万から年収が上がらない理由はいろいろ分かるんです。足りてないところが、いっぱい見えるんです。ここをクリアしていけば、年収1000万円いけるだろうなって思う足りてないところはよくわかる。本人からはよく分かってない。それがまさに上下の差である、みたいなことは全然あります。
そしてその人が、例えば、同い年でも、年上でも年下でもいいんですけど、バカにするとか見下すという感覚はあんまないんですよね。その人が生まれて、例えば仮に30歳だったとして、30年間その人なりに全力で生きてきた結果が今ここであるという感覚は結構あります。
もちろん一方で、(年収でいうなら)「お前はサボってきたから、その年収止まりなんだろ」ということも、世の中全然あり得ると思います。あり得ると思うんですけど、僕はどちらかというと、人と接するときに、なんだろうな、その人なりに一生懸命やってきた結果、今そこにいるっていう風に、その人なりの努力みたいなことに対して、普通にすごい敬意を感じます。頑張ってきたんですね、って。でも、能力が、例えばある水準と比較したときに足りてなかったりするのは、それはでもそうですよねと。
「見下しているんじゃないか」という話は、実際問題、結構見下したりすると思うんですよ。自分の人生のこととか考えずに、勉強もせずにだらだら過ごして、「そそれは人生上手くいくわけないでしょ」みたいなこともあるとは思っています。子どもの教育のことも、特に考えてないから「公立でいいや」みたいになってるんでしょみたいな、という風に思ってる人たちだっていっぱいいるとは思いますよ。

そうですよね。そうですよね。いや、ま、世の中的にはめっちゃいるでしょうね。
現実問題として見下す/見下されるは起こる
見下してんじゃねえかといったら、いや、見下してる人は、そりゃいると思いますよという感じですけど。じゃあその見下すという構造の何が嫌で、何が問題なのかという話じゃないですか?
でも、それは言い出したら、さっき言った非常に母性的な主義主張になるんです。必ず。もっと平等であるべきだし、結果平等になっていない世界の中で、苦しみながら頑張ってる人たちへのリスペクトが足んないんじゃないかという怒りがあるから、そういうものが出てくる。
ちなみに私の友人で、話していて、すごい大きく言うと価値観がめちゃめちゃ近くて、話してて楽しい人がいるんですけど、細かく分けてくと違うところがあって。それは、例えば会社で頑張れない人がいるみたいなときに、私はこの人が頑張れないのは何なんだろう?どうしたらこの人も頑張れる構造が作れるだろうかというアプローチを割とファーストチョイスとしてるんですよね。でもその知人は、「いやいや、頑張れや。みんな頑張ってるのに、何で人のせいにしてんの?」という感じが結構強いんです。
主体性が大事ですよねとか、心理的安全性大事ですよねとか、対話が大事ですよねとか、非常にクラスター分けすると、ほぼほぼ同じ位置にいるんですけど、結構細かい局面になると、「そこは、『てめえ、自分で頑張れや』ってなりますよね」「なんで、まだこの人が頑張れる構造が作れてないんだろうかって思っちゃうな」みたいなタイプも、あるなと思います。

なるほどね。こう、細かく分けていけばね。なるほど。
人を見下す/見下されるとはどういうことなのか?上下関係はあるけど、人に敬意を払うは両立する?
- ある軸でみたら上か下かという差はある、そういう意味で、「下に見る」みたいなことはある
⇒ただ(ある面で)「下である」「下に見る」がイコール「見下す」と同じなのかは違う感覚もある - 能力が下である人にも敬意を払いたいについては、「人として」「人格として」の部分について、もう少し解像度を高めることも大事かも
⇒人としての中に結局「能力が高い」も含まれてしまっている場合もある