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私が嫌な仕事は他の人も嫌に違いないから、他の人にさせるくらいなら私が引き受ける
これまで話を聞いて、大事な話があって、Tさんは「私が嫌なことは他の人も嫌に違いない」と思っているところがあるように感じています。
その考えがまずあって、私が嫌なことを他の人に押し付けるのは嫌だという気持ちが生まれ、前回話したような面倒事や嫌なことを引き受けてしまうというのが生じている面もあると思います。
でもこれは、もし、Tさんが嫌なことを喜んでやる人が世の中にいるとしたら、喜んでやる人の仕事を奪っている可能性すらあるのです。
違いがあるみたいなことが前提にないから、私が嫌だということはみんな嫌だよね、みんな嫌な思いをするに違いないから私だけが嫌な思いをすればいいと自分にとって嫌なことを引き受けちゃう、ということになっているように思います。
これは、職場でも家庭でもそうなんですけど、まず家庭でいえば、片付けは苦にならないけど買い物をするのはすごいストレスを感じるとか、掃除機をかけるのはいいんだけど洗濯機まわすの本当に嫌だとか、だと感じる仕事や作業って、人によるんですよね。
職場でもそういうのはもちろんあって、だから例えば営業が向いている人とか、経理が向いている人とか、大枠で部署に分かれて役割分担しているというのがあるわけですけど、それ以外でも本当に細かいところでも違いはあります。これはまず大前提です。
それでも、みんな嫌だよねという仕事もあるとは思います。例えば、10名の部署で、全員シュレッダーの片付けは全然したくないです。そういうことも、もちろん世の中にはあります。
だとして、仮に10名にいて、10名ともその作業の嫌度が100点満点中100点嫌ですということなら、0日に1回 そのシュレッダーの掃除がまわってくる当番にしましょうという話をすればよくて、他の9名が嫌な思いをするくらいだったら、私が毎日嫌な思いをしますというのは、まぁ健全な状態ではないと思います。
このように面倒事などを引き受けてしまう人、自分を後回しにしてしまう人は、どうしても自分が大切にしたいことを大切にする時間が持てなくなってしまう。
もし、人が嫌がることを引き受けるということが、私の1番やりたいことであるのならば、別に悩まないと思うのですが、そういうことをやっていると自分の時間が無くなって、本当に自分がやりたいことに時間を注げていないんだよなと思うのであれば、それはやめる必要があります。
私が嫌は、みんな嫌って思っています。
で、これ何でそう思うのかなぁと思いながら、聞いてたんですけど、小学校のときに一時期 いじめられてた、ハブられていたことがあって。
その当時、給食の後片付けって、当時みんな嫌で、誰もやりたくない掃除当番みたいなのだったので、なんか片付けしないまま、やりっぱなしみたいな、みんなお昼にお昼休みに外に遊びに行っちゃってずっと残っているみたいな感じだったのですが、このハブられた子たちが片付けてくれたりとか、先生が怒って片付けるみたいなことを見ていた記憶があります。
なんか何でそれを始めたのかわからないんですが、気付いたら、自分がこれをやったら、ここに自分が存在している意義が生まれるような気がして、なんかみんながやりたくないその給食の後片付けみたいなのを、自分から進んでやっていたことがそういえばあったなって思いだして、なんかここに引っかかるような気がしました。
人が嫌がる仕事を引き受けることに喜びややりがいを感じているか?
今、Tさんが話してくださったようなそういう自己探究は、私はすごい大事だと思っています。
さっきも途中でポロッと言ったんですけど、もし意思をもって自分はそれが自分がしたいのであるという風に思って、選ぶのであれば、私はそれは全然いいと思っています。
私の存在意義は、私の使命は、みんながやりたくないものを引き受けて、みんながやりたいことに専念できるようにする、そういう存在ですというアイデンティティに自分が喜びを感じるのであれば、そういう在り方もありだと思うのです。
これは、私の中では、家庭の中の母親、昭和のお母さんたちの中にそれをみることが多いのですけど、母親はそうあるべきみたいな、要は家事や育児、家庭の中の大変な面倒くさいことを一手に引き受けて、子どもたちが勉強に集中できるようにとか、思いっきり遊べるようにとしている。
お父さんは仕事をして稼いできてくれているかもあるかもしれないけど、週末くらいゆっくりさせてあげるとか言って、月曜日から日曜日まで、お母さんはいつ休みがあるんですか みたいな状態。
昭和は、それが母や妻の在り方でしょうという社会的文脈が強くて、好んでそれをしていたわけではない方もたくさんいたと思いますが、一方で、それを心の底から喜びとして感じられるタイプの女性も世の中にはいます。私は、みんなのことを甲斐甲斐しく世話していることが自分の存在意義だし、そこに喜びを感じていますという人です。
何が言いたいかというと、本当に自分はそうしたいんですかっていうことをもう1回ちゃんと確認したときに、もしかしたら意外とやっぱり心の底から好きかもというのであれば、組織の中にいて、みんなが取りこぼしてったようなものを引き受けていくというポジションで仕事していくというのもそれはそれで正直ありだと思います。
いや、別に意図的に選んでないし、たまに1回やるくらいはよかったかもしれないけど、この後も10年20年続けたいかと言われたら続けたくないなぁというのであれば、ちゃんと決別したらいいと思います。
前回の話で出た、職場のシュレッダーの片づけをするのはいつも自分になっているという話でいうと、私がその片付けをすることに喜びを感じているかっていうと、やっぱり疑問を感じました。
一方で、なんか貢献心は強いので、誰かの役に立っているということに関してはちょっとポジティブではあるなぁと思ったんですけど、でも総じて見たときにすごいやりがいがあって、ここから先の人生ずっとシュレッダーのゴミを替えているという仕事が仮にあったとしたらやりたいわけではないなぁという風に思いました。
もっとちゃんと副業のお仕事とかで、生計を立てられるくらい、何だったら望むような生活ができるような収入になって暮らしていく未来の方が選びたい?
そうですね、そっちの方がしっくりきますね。
じゃあ 選びましょう。
いやぁ…結構なんかハードルあるなぁ…
そのハードル、とても大事です。今、抵抗というか、ハードルはどこに感じてるんですか。
やらないで放置しておくってこと自体がもうなんか気持ち悪いなっていうのと、自分が嫌はみんな嫌……なのかなぁ。
うーん…誰かに面倒くささを押し付けてると思ってしまうところが、1番嫌というか、こう苦い気持ちになります。
柔軟な思考で考えてみたときに…
ここまでのお話を聞いて、考えてみてほしいポイント、お伝えしたいポイントが3つあります。是非思考を柔軟にして、いったん聞いてみてください。
①目の前の困っている人しか見えていない
まず困っている人たちが今の会社や職場にいて、そんな中、例えば副業の占い師業で独立をして、Tさんは会社から離れますみたいなストーリーがあったときに、困っている人たちを捨てて私のやりたいことを優先して出ていくなんてという捉え方をすることは、それはそれでできます。
でも一方で、もし会社にとどまっていたら、本当は凄腕の占い師であるTさんが救える人たちがいるのに、この人たちは放置しているみたいにいうこともできます。何だったら、占い師業の方がもっと深く広く救えるかもしれません。助けられるかもしれません。
今 目の前の困っている人たちのことしか見えていなくて、でも人生トータルで考えたとき、本当に困っている人たちの助けになりたいとしたら、それでいいんでしょうか、というのはこれはこれであります。
②自分が嫌なことはみんな嫌という発想は危険
もう1つは、私が嫌なことはみんな嫌だは、それは結構大事な話だなと思っていて、以前の動画で対人支援の仕事をするとき、自分が同じ経験をしてからじゃないと支援できないみたいな話をしていたのと通ずる話なんですけど、
この思い込みは思い込みで、強い制限になってしまいますし、逆に経験したんだったらわかると思ってしまうのも非常に危険です。
例えば Tさんが今の会社で例えば課長という肩書をやりました。そうしたら、全世界の課長の気持ちがわかるんですか?はい、私 課長をやったことあるからわかります、という理屈なんですよね。それは、対人支援をプロとしてやっていくとしたら、すごく危険な考え方だなと思います。
③実は誰かの仕事を奪ってしまっている可能性
話をシュレッダーの片付けに戻すと、シュレッダーのゴミ捨てみたいな仕事を例えば引き受けてやる人が職場に現れたとして、その人は 例えばそんなに仕事の能力は高くないけど、ちゃんとシュレッダーの片付けをしてくれることによって、職場の人からいつもありがとうねと言われる回数が増えて、職場の中で自信をもって仕事ができるきっかけになるみたいなことはあり得ます。
また、シュレッダーのゴミ捨てなんて単純仕事はみんな やっぱり嫌だし、やってられないよという話に例えばなったとして、じゃあもうこれは清掃の人お願いしよう、お金で解決しようと会社としてもしなったとしたら、その職を求めていた人がこの世界にいて、その職を得ることによって家計が助かってみたいなことだって世の中 起こり得ます。
Tさんがそのポジションを取っちゃってるから、そのポジションを本来やって稼げる人が稼げていないのかもしれないという発想も全然考えられます。
①目の前の困っている人しか見えていない
②自分が嫌なことはみんな嫌という発想は危険
③実は誰かの仕事を奪ってしまっている可能性
この3つの話を聞いてみて、ごちゃっとまとめてでもいいし、とりあえずこの1つについて思ったんですけどでもいいんですけど、何かありますか。
うーんと…この3つの話というよりは、今までのの聞きながら思ったことで、ひとつは、目の前のことしか見えてないは、何か結構それは、すごい仕事でも感じることがあるので、うーん、そうだなって。納得だなぁというのが思いました。
仕事に関しては、つい目の前の優先事項だったりとか、差し込みタスクとか、目の前で起こって、見てしまったことに対してそれこそ身体が動いちゃってるので、よく上司にも「それ、今じゃなくてよくない?」って言われるんですけど……。
なので、つい目の前で起こったこととか 見えたことが、なんか手が出ちゃう、身体が出ちゃうというのは日常でもあるなと思ったので、うーん、なんかそうだよなって納得でした。
(どうやらTさんは自分のスキルに自信がない様子…この続きはまた次の記事で)
私が嫌な仕事は他の人も嫌に違いない?
- 自分が嫌なことを喜んでやれる人も世の中にはいる=人によって違う
⇒例えば、自分は料理が苦手だけど、料理をするのが喜びの人もいる
⇒経費精算みたいな仕事大嫌いという人もいればきっちりと入力する作業が好きな人もいる - 思考を柔軟にすることは大切
⇒「目の前の困っている人を助ける」も大事だが「目の前の人に関わっていることで、本当はもっと助けられる人たちを放置している」こともありえる
⇒「私は課長を経験したから、課長の苦労ならわかる」という考え方はとても危険