人間って無意識に人を見下してしまうみたいなところがあるのだろうか?|見下したり見下されたくないと1人でいろいろ考えていたら混乱してきました

この記事は約14分で読めます。

今回の探究テーマ:一児の父 40代 男性 Fさん

ある人の投稿を読んでから、人は無意識に人のことを見下してしまうことがあるのだろうかとか、見下したり、見下されたりしたくないときに自分はどうしたらいいのだろうかとか、1人でいろいろ考え始めてしまい、結論も出ず、混乱しています。

動画で見る

記事で読む

人間は無意識に人を見下してしまう生き物だったりするのでしょうか

僕がFacebook上で、一方的に、この人なんか素晴らしい投稿するなと思ってる人がいます。専門は農業の研究してる人かな?ちょっと間違ってたら申し訳ないですけど、他には教育に関する投稿が多くて。で、その人が、1ヶ月ぐらい前に、例えば公立の学校が荒れてるから、子どもを私立に行かせるみたいな考え方は、結構公立のことを見下しているんじゃないか、みたいな投稿をしたんですよね。

で、それが結構、炎上して。自分の子供を安全な学校に通わせたいというのは、親の気持ちとしては当たり前のことなんじゃないかみたいな意見がありつつ、一方、例えば、公立は荒れてるからとか、公立には落ち着きない子がたくさんいるから、みたいな理由で私立に行かせた場合、私立の小学校に入って、そこで自分の子どもに発達障害が発覚したとする。発達障害などのケアに関しては、私立よりも公立の方が充実してるから、じゃあ公立に転校させようかみたいなことになったときに、子どもがすごい抵抗を示したみたいな事例があるらしいんですよね。で、そういうこともあって、私立に行かせること自体は問題ないけれども、公立を見下すような理由を、子どもに言ってしまうのは教育上良くないんじゃないかみたいなことがあり。

それを見て、僕は結構荒れていた中学校で働いてたこともあり、「いや、これだけ荒れている学校に自分の子どもを通わせたくないな」という気持ちも、すごい分かるし。かと言って、さっきの発達障害の事例も、もし自分の子どもがなんか、なんて言うのかな……そういう状況になったときに、それは子どもとしては、公立行きたくないって言うだろうなとかいうことも考えると、やっぱりどっちの意見も分かるというか。どっちの意見も分かるから、まぁ、炎上するんだろうなとは思うんですけど。……説明難しいですね。

大丈夫ですよ、続けてください。

それで、っていう投稿を見たときにですね、結構人って、無意識の間に人を見下してることってあるんじゃないかと思い始めたんですよね。

僕は、前から、結構ビジネス系の所謂優秀な人の投稿で、「優秀な人と無能な人」みたいな書き方をする人のブログとか、あんまり好きじゃなくて。優秀になるための方法だったりとか、こういう人は無能であるみたいな記事、結構あるじゃないですか。そういうの嫌だなって思っていたんですけど、そこから結構、「いや、でも自分も無意識の間に人見下してることあるな」とかっていう風に考えたりして。

例えば、誰かから暴言を吐かれたとするじゃないですか。そうしたら、自分の中で、「あ、なんか心が貧しい人なんだろうな」とか、「この人、人生うまくいってないんだろうな」みたいな、こういう風に考えることで、自分自身を慰めてようとしてるみたいな部分もあるな、みたいな。

そういうことを考え始め、人を見下さずに生きるってことは可能なんだろうかとか。見下したくないなとか。そんなことを1ヶ月ぐらい考えてたんですよ。

自分自身も、あ意図的に誰かを傷つけようとしたわけではなく、無意識に失言しちゃうこともあったりとか。で、そういうときって、自分が、自分自身が見下してる対象と同じ状態になってるから、結局自己肯定感下がるよなとか。なので、やっぱり見下したくないなとか、見下されたくないなということを突き詰めていくとどんどん混乱してきて、これも見下す考え方だろうかみたいなことを考えるようになり……っていう感じです。

日本はダブルスタンダードがある社会

先ほどの話は、いくつかのキーワードを経て、最後のところにたどり着いていて、途中のキーワードもところどころ思うところはあるんですけど。

まず、教育の話から始まって、公立や私立みたいな話でいうと、私は、普通に、少なくとも日本社会はダブルスタンダードだなと思います。上下のある社会であるということと人類平等的なものと、ダブルスタンダードが存在しているんです。

民間企業は競争社会ですという前提でやっているので、当然優劣はあるし、優劣の劣の会社は倒産するとか、劣の社員は給料が上がらないとか、という仕組みで基本やっています。上下はあるという前提で、当然動いているわけです。学歴などだって全部上下はあります。

だけど、これが医療の世界になると、特に日本は急に減るんですよね。お医者さんは、病院に運ばれてきた人間が、犯罪者か金持ちか貧乏人かを気にせずに医療を施すのが医者であると教わって医術を施します。それは大切なことで、社会保険料とかも苦しい人たちに配るんだみたいな発想でやっていたりして、平気でダブルスタンダードがあるんです。

良い悪いではなく、私たちはダブルスタンダードの社会に生きているんだなということは、認識しておいた方がいいと思います。

自分はどちらが好みの思想なのかとか、何対何ぐらいがいいと思ってるのかみたいなことは、自覚度があったらいいと思いますけど、私はそもそも上下がないとは思ってないというのが、まず1つ大事なところです。競争社会における競争原理と、その軸における上下はあるというのはまず前提だと思っています。

もう1つ、見下すの話をしてたんですけど、見下すという表現は、ちょっと解像度が荒いなと思いました。だって、将棋だったら、名人とか八冠は奨励会員より上ですし、別にビジネスの世界で考えたら、例えば、年収1000万の人と年収500万の人だったら、年収という軸では年収1000万の人のほうがすごいとことになるでしょうし。

でも、人間は一軸で暮らしていないので。例えば、さっきの年収1000万円の人とねんしゅう500万円の人が、テニスコートに行ったら、1000万の人の方が教わる側で、500万の人のほうがテニスは上手いというのは、ゴロゴロあるわけです。『釣りバカ日誌』などが、まさにそういうことを書いてると思います。

立場が逆転するなんていくらでもあるけど、でも、上下がないということでも別にないわけです。上下を入れ替えたりしながら暮らしてますよね、と思います。

で、「見下す」というのは結構強めの表現だなと私は思ったのですが、男性のほうが女性より、例えば腕力、力があるので、スーパー行ってお米を買うときに、夫婦で行ったらお米を男性が持つみたいなのは、別に力のない人が下なのではなくて、ただ合理的な話ですよね。背が高い人と背が低い人がいたときに、高いところにあるものをなんか取るみたいなのも、高い人がやればいいじゃんというのがあって、それは普通に別にあってもいいと思います。

それでいったときに、私は、「あ、高いとこにあるから、俺が取るよ」って言ったときに、「あ、自分は背の低い人を見下してるんだ」と思うかでいえば、別に僕はそれを見下してるとは思わないなと思うんですね。

身長ではなく、算数ができる人とできない人みたいなのもあって。算数の能力には差があるわけだから、それをないものとするというのは、まずすごいおかしな話ですし、自分はこのレベルの算数ができるけど、この人はできないんだということはあり得ます。それが自分のパートナーかもしれないし、親かもしれないし、子どもかもしれないんですけど、それはただ能力に差があるだけで、別に見下す必要はないのかなと思いました。

結構そうだな。確かに、「見下す」って言葉の解像度が荒いっていうのは、そうだなと思いました。

Fさんの解釈パターンとして見下すに対する意識が強い

僕の中で、結構最近ショックなことが1つあって。うちの息子が、おむつがまだ外れてないんです、年齢的、月齢的に言うと、ちょっと遅れてるぐらいなんですよ。で、結構保育園の中では一番遅いぐらいかなみたいな状態で。親としてちょっと焦るんですよね。

で、焦る必要もないっていう意見も分かるんですけど、うちとしては、トイレを促したりとか、いろいろとする中で、息子にも「ちょっとトイレできるようになった方がいいよ」とか、そういうことは言うわけですよ。で、あるとき保育園から帰ってきたら、1個上の学年の子の名前を出して、「〇〇君、まだおむつ取れてないんだって」って言ったんですよね、息子が僕に。

いや、これ良くないな、と思って。いや、これ、これもなんか無意識の見下しなんだろうか、とか。なんか声かけを間違ったんだろうか、みたいなことをこう考えちゃったんですよ。

な、なんで良くないんですか?

いや、なんか「〇〇君、おむつ取れてないんだって」と言って、息子が笑いながら来たので、これは息子がおむつ取れてない子を見下してるように、僕は見えたんですよ。本人としては事実を言っただけなのかもしれないんですけど。ということは、僕の声かけが、おむつ取れてない子のことを見下してるような声かけだったんだろうか、とか。そういうことを考え出したんですよ。

なるほど。いや、私は、まずそれを見下してるとFさんは解釈したんだなと思いました。ちなみに私は、さっき聞いた瞬間で言うと、「上の子だってまだできてない子いるんだから、僕だって大丈夫でしょ」みたいな、「僕だって大丈夫でしょ」とか、「安心していいんだよ」とか、「僕も安心していいはずだ」みたいに思ったんですよね。もちろんこの解釈があっているかはわからないわけですが。どちらにせよ、まぁ息子さんご本人がどういう気持ちでその発言になったのかも分からないから、まず「見下している」と決めつけない方がいいよね、という話が1つあります。

そしてでも、少なくともこれをFさんは見下しだなと解釈したんだなというのはあって、正直にそういう解釈パターンが強いんだなとは思いました。上下というものをすごく気にしているし、見下されるのが嫌だし、見下したくないみたいなのがすごい強いんだろうなっていうのは、まず聞いてて思ったところです。

自分は上下関係で、上の人は上だし、下の人は下だしっていうのは、なんだろう、そんなに気にしないかなぁ…。

一側面でしかないはずなのに過度な一般化が起こってしまっている

当然その、できるできないの優劣は当然あると思うんですけど、例えば、じゃあ、できるからと言って、なんか人として下に見るみたいなことになってくると、人格とかまで下に見るみたいになってくると、それはなんか見下しだろうな、みたいな解釈ですよね、僕。だから、年収が高い人が年収低い人に対して、「無能」っていう言葉が好きじゃないんだろうな、なんか、いうのだったりとか。

おむつの取れるのが早い遅いみたいな、年収が高い低いみたいなものがあるじゃないですか。おむつという能力は、いろいろある能力のうちの1つにしかすぎないと思うんですよ。だから、別に、おむつの優劣について、おむつ取れんのが早い子と遅い子がいるね、で、平均でいくと、例えばうちの子はちょっと遅れているのは事実で。

そのときに、平均と比べて遅れるような理由なかったときに、「ちょっと平均と比べると遅れてるから頑張った方がいいんじゃない?」「あなたできるはず」というコミュニケーションは、それ自体は別におかしくないと思うんです。

だけど、そのコミュニケーションを、それこそ1箇所でもすると、全人格的に見下してることになるんじゃないかという一般化がFさんの中で起こるんだろうなと思いました。

「あなたはおむつ取れるはずだから、トイレに行くようにね」は見下しではないんですけど、「もうあなた、おむつ取れる年齢なんだから」は、結構リスキーだなと思ってるんですよ。「もうお兄ちゃんなんだから」とかってなってくると、なんかちょっと見下し要素が入ってくるなとか。ま、僕が過敏なのかもしれないですけど。

平均と比較するみたいなのが嫌なんですか?

や、平均と比較するのはいいんですけど、えっと、「これぐらいできて当たり前」になってくると、ちょっと微妙になってくるなっていう感じですね。

相手に自分が持っている期待値を示すことは悪なのか?

私は、子どもに対してや上司が部下に対してみたいなときに、別に期待値を示すというのは、それ自体が悪だとは思ってないんですよね。あなたはこのぐらい全然できると思うよ、やっていないだけで全然できると思ってるよって。

で、先ほどの話は、そのときに言い方として、例えば「3年目社員だったらこのぐらいできるよ、あなただって絶対できるはずだからね」と言ったときに、わざわざ3年目社員の平均の話を出す必要がありますか?という話だと思います。それは私としては、出しても出さなくてもいいと思うんですけど、出すのがそんなに悪いことなのかと言うと、そこまで悪でもないかなとは個人的に思ってます。

もちろんそこに思想は現れますけどね。「あ、これ、この人は平均との比較を気にしてる親なんだな」ということにはなるじゃないですか。

でも、嘘ついてもしょうがないじゃないですか。早い遅いというのは、どうしたって平均と比較して持ってるものだから、さっきFさんが仰っていた「ちょっと遅くて焦っているんですよね」「「できるようになった方がいいよ」という声掛けをしているんですよね」という状況は、自分がもう平均と比較してるわけですよね。

本心から平均と比較してないんだったら、「うちの息子にはうちの息子のペースがあるんだから、いずれ取れるから心配しなくていいんだ」と息子さんに伝えてもいいわけですよね。そうじゃなくて、ちょっと焦っているから「ちょっとできるようになった方がいいよ」という声掛けをしているので、それは認めた方がいいと思います。

そうなんすよ。なので、結構そこから出てきて思ったのが、なんか、愛するとは何かみたいな話になってきたんですけど。あの、別に、おむつが遅れてようが遅れてなかろうが、気にしないみたいなのが、理想的というか。なんかちょっと言葉のチョイスが難しいんですけど。

それがなんか愛の示し方なんだろうかみたいなことをちょっと考え出したんですよね。人と比較しないみたいになったときに、人と比較せずにちゃんと愛するみたいなことを考えたときに、それ超むずいなというか。仮に勉強できなくても、仕事できなくても、なんなら、将来ちゃんと自分で食っていく力がなかったとしても、ちゃんと愛するってことは、究極それは親が養っていくことが愛なのかとか。そういうこともなんかぱぁーってなってきて。

いや、だから僕の中で答え出ないんですけど。だから、なんか見下したくないなっていう思いから、えっと、ちゃんとありのままの子どもを、比較せずに愛するっていうことも難しいなと思いつつ。でもさっきの石川さんの話だと、人はね、能力の差はあるものだからみたいな話も、確かにそうだなと思うし。すみません。まとまってなくて。

愛し方で【父性】と【母性】は両方大事

子どもの愛し方は、ざっくり理屈で言うと、父性母性があると思うんです。母性は、もう何でもそれでいいよと受けいれる世界で、父性は「それじゃ生きていけないよ」と教えてあげるっていう世界だとして、それはもう両方大事だって思っています。

家庭の中だと、お母さんが母性担当で、お父さん父性担当とか、その逆だっていいですが、役割分担をしても別に構わないんですけど、両方大事だと思ってます。

たぶんこれは、話としては繋がってるんですが、今回の会話の中で最初に話した、日本はダブルスタンダードがある社会であるというときに、資本主義の競争原理みたいなのが父性的なんです。そして、医療の現場みたいなのは非常に母性的なんですね。で、社会にはそのダブルスタンダードがあるわけです。そして、家庭の中にもある種のダブルスタンダードはあって、それはごく自然なことだと思っています。

子どもは父性も母性も受ける。だから「お前、そんなことやってたら食ってけないぞ。俺たちが死んだ後、どうやって自分で食ってくつもりなんだ。ちゃんと考えろ。世の中そんな甘くないぞ」と教えてあげるのは、ここでいうと父性的な愛ですよね。だけど、「上手にできなくったって、なんだって、愛し続けてるのは変わらないのよ」というの母性の愛です。

だけど、母性の限界は、現実的に言うと、じゃあ自分たち親が死んじゃった後に、食う力が育たなかった子どもたちが、どうやってその後幸せに過ごしてくの?というところに対する無責任があるわけですよね。だから、父性も母性もどっちも大事なんですよね。

そうか、じゃあ、バランスの話ですね…1番最初に言ってた何対何ぼの話ですよね。

私は前提として、自分の子どもと接するときに、一生経済的な面倒を見る気はないので、仮にこの後、私が大金持ちになったとしても、そのお金で、生涯賃金分ぐらいのお金が仮にあったとしても、それを渡して暮らしてもらうっていう発想を自分は持っていないので、やっぱり父性は要りますよね。

私が甘やかして甘やかして、社会性が身につかなかったら、困るのは、私が死んだ後の本人なので。あの人、随分無責任な接し方をしてきてくれちゃったんだな、ということになりますよね。

なりますね。うん。なるほど。ダブルスタンダードでいいわけだ。

両面があるって感じだと思います。

いやあ、そうっすよね。なんかずっと、父性と母性の話って、たぶん今まで石川さんと何度もしてると思うんですけど、結局ずっと同じとこで悩んでるな、みたいな感じに、ちょっと今気づきましたね。なるほど。なんかすごい、整理されましたね。ありがとうございます。

人間って無意識に人を見下してしまうことがある生き物なのでしょうか

  • 上下関係や能力の高い低いはあるが、ただ差がある/違いがあるというだけでそれがそのまま見下すに繋がるわけではない
  • もし見下す/見下されるが気になるとしたら、自分の内面の何がそれを起こしているかを探究する

おむつが取れるのが平均より遅れている息子さんに対しての接し方では

  • まず親として焦る気持ちが正直あることは認める
    ⇒気持ちがあるのに嘘をつくのは、おすすめしない
  • 子どもへの愛の示し方としては【父性】【母性】の両方が大事
タイトルとURLをコピーしました