【探究してきて】実家での居心地が変わったり安心できるパートナーができました

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今回の探究テーマ:営業職 30代 男性 Tさん

「すごい退屈だなとか面白いことないかな」と思っていた日々から、今はかなり変化を感じています。自分の感情は自分で処理しろよと思っていたところにも変化があって、実家の家族との関係も変化して、土台の安心感を感じながら生きているし、今 新しく出会ったパートナーとは本当に深い関係性を築けている感じもあり、日々充足感や楽しさがあります。

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頭で考えて「こうあるべき」が強かったところが少し解れて起きた変化

Tさんと振り返りをしたいなと思います。この動画に出演していただくようになって、2~3年経つと思うのですが、多くの変化がありました。以前の自分の動画を見てもらったりもしんがら、今の自分と考え方、感覚、感じ方などに違いがあるか、どのような違いを感じたか教えてほしいです。

まず、Tさんとはこの話から始まりました。

モチベーションが続かないことが多いのですが、どうしたらいいですか?

何でもそうですか?

何でもではないですが、多くのことはそうだと思います。何かいいことないかなという気持ちがあったり、周りからも聞くことがあったりするのですが、この正体は何なのかについてお聞きしたいです。

どういう時にそれが湧いてくるか、出てくるタイミングはありますか?

繰り返しの日常が続いている時や、友人知人と会う時も食事してお酒飲んで面白かった話をして、という繰り返しだと感じる時に、何か面白いことないかなと思ったりするかもしれません。

そうですね。なんかこう、すごい退屈だなとか面白いことないかな、というところから始まったなと思います。

その時はやっぱり、仕事のやりがいとか、それも大事ですけども、そういうなんか自分なりに、この範囲内で心から意義とか人生の充実を感じなければいけないという、あるはずのない制限をいつの間にか設けていて、そこでなんか見つからないな、で、少しずつ仕事の領域を変えたりとか、あとは引っ越ししたりしてみたいな。それで気分転換するっていうのを繰り返していたものの、それは一時しのぎ的というか対処療法だったので、ずっとその繰り返しだった時間を過ごしていたんだな、という風に思いました。

3年でなんかそういう、頭で考えていた部分が研ぎほぐされて、気持ちが魅力に感じるようなこととか、変に頭で考えすぎずに充実感を得られるような時間がこう増えてきているな、という感覚が、大枠としてあるなと思います。

他にも、印象的だったエピソードとしては、感情は自分で処理しろというところで、こういった話もしましたね。

例えば結婚をして、Tさんが仕事すごい頑張ってて、なんか、大変なプロジェクトをやってて、ストレスもすごいかかってます、みたいな日々があった時に、家庭に帰ってきて、奥さんと喋るコミュニケーションにおいて、「いや、今この仕事めっちゃ大変でさ、すごい、結構胃が痛いんだよね」みたいな。「それすごいね、頑張ってるね」みたいな会話はいらない。

なくていいですね。うん。

仕事とプライベートは切り分けられているんですね。

かもしれないですね。なんか別に意識してそうしてるつもりはないですけど。

相手がそれ聞いてよっていうのを求めてきても、別にそれ聞きたいわけでもないのね。

別にないですね。仕自分自身の属性としてニーズがないなって感じなんですけど、弱音をこう吐いたりとか聞いたりとかは、あんまりちょっと得意じゃないので。

仕事の話で「今こういう状況でこういう風にしていきたいんだよね」とか、「これがちょっと大変でさ」みたいな、そういう建設的なお話だったらすごいいいんですけど、どうにもならないことを話してもどうにもならないし、やるしかないって、ちょっと僕は思ってしまっていることがあるかもしれないです。

あのときは、仕事の困ったこととか、相談ベースとか弱音とか一切いらないです、みたいな感じで言ったのですが、いやいやいやいや、と今は思うので、こうあるべきという謎のこうあるべきに支配されていたというか、なぜそう思ったのか今はちょっとよくわからないですけれども、今現時点の自分自身の感覚とはだいぶ違う発言をしているなという感じですね。

ありがとうございます。そうですね。今言ってた言葉で言うと、その場しのぎの対処療法だったところから、そこから変わってきたのを私も感じています。前は頭で考えちゃってたな、みたいな。

自分の感情は自分で処理しろよの話はすごい覚えてて、私の解釈としてちょっと思ったところを挙げさせてもらうと、本当に頭で「こうあるべき」みたいに処理していた。で、頭と心は、ちょっと別の機能というか、別の部位で、頭ばっかり使って、自分が何を感じていて、何が喜びでみたいな心の方はあんまり大切にしていなかった、できていなかった。

その頭ばっかりで処理しているところで、本当にモチベーションや意欲が湧くとか情熱的に過ごすとか、幸せを感じるみたいなのは、頭で幸せを感じるわけではないので、それは難しかったよね、というのが一つ思うところです。頭が心に蓋をしていたみたいにも言えるかもしれないんですけど、頭は大事なんですけど、ちょっと頭に一旦休んでもらって、心はどうなんだろうというのをやってきてたのかな、という気はします。

恋人とかパートナーに求めるものとして、自分の感情は自分で処理しといてほしい、みたいな話だったのは結構象徴的だと思うんですけど、要は自分が心を取り扱ってなかったから、相手が心のことを出してきた時に取り扱い方が分からない。というか、自分はそこ蓋してるんだから、あなたも蓋しといてよ、みたいな。

辛かったとか苦しかったとか、こんな嫌なことがあったとか、こんな嬉しいことがあったも含めてかもしれないけども、その感情・心のところですよね。特に多分ネガティブな方だと思うんですけど、それ出さないようにして、ある種あえて言うと浅い幸せだけで過ごしてるようにしてるんだから、心の深いところとか出してこないでよ、みたいな。それ処理するのが大人でしょ、みたいな。大人の関係で、浅く楽しいよねってやっといたらいいじゃん、みたいな。

当時はそこまで言語化がされてなかったと思います、自分が浅く生きてるなんて思わないので。ですけど、今言えば、そういう風に捉えられるような処理の仕方をしていたのが、本当にいろいろTさん自身が頑張って、取り組んできて変化してきて、今の状態があるのかなというのが改めて思ったところでしたね。

という、ちょっと石川なりの解釈を聞いて、また何か感じたこととか思ったことがあれば教えてください。

家族との関係性の変化や新しく出会ったパートナーとの関係性

そうですね。その感情の処理の部分って、あんまり意味のあるものとは思っていなかったんですが、石川さんとこの2~3年話す中で、大事なことなんだろう、というその理解をし始めて。

で、今付き合い始めた人、ちょっと前からお付き合いを始めた人が、僕に対する怒りとかじゃなくて、感情を、「こういう時に、こういう風に感じてしまった自分が・・・・」とかなんか、そこから始まって、去年のいろいろ大変だったという僕とは全然関係のないこととかもいろいろバーって話してくれて。

論理的には意味が分からないこともたくさんありますし、何でその話をしているのかということもよく分からないんですけれども、そういうのを持ち出してくれて、それを「私はこう思うよ」とか、「だからこんな風に感じる必要はないんじゃないか」みたいなコミュニケーションを繰り返したことで、なんか明らかにこう関係が深まった感覚があってですね。

で、それはこの最初の方の動画で僕が否定していったプロセスが、なんか明確に意味があったなという感覚を得たのと、自分自身すごいそれに、何て言うんですかね、充実感を覚えたというか、関係が深まる感じ。その、もともと自分は人間関係にたいして幸せを感じるなとは思っていたんですが、なんかさらに深いところに、そういう充実感とか幸福感があるんだなっていうのが実感できたエピソードが少し前にあったなというのを、今石川さんの話を聞いて思い出していました。これが一つですかね。

新しい、今までよりも深い人間関係を築く体験があったんですね。

はい。あともう1個思ったのが、なんか面白いことないかな、みたいな文脈のところで、自分は何に喜びとか充実感をこう感じるのかという問いは、その過去を振り返って、どういう時に幸せを感じたか、ということからじゃあどういう方向性に進めるべきか、という考え方をすることが多いと思うんですけれども。

僕の場合はそうですね、もちろん幸せとか喜びを感じていた過去もありますけれども、なんかこの2~3年ですごい自分が求めていたのは、なんかこう家族愛とかそういったものだったな、というのが一つあると思うんですが……。

自分の実家に、(既に家族愛を感じられるような関係性が)それがすごく明確にあったのに、僕は認知できていなかったので、なんかその認知できてないものをこうずっとなんかこう探して見つけられないな、どうしよう、っていう状態だった期間が続いてたんだなと思っていて。

で、それを石川さんとの対話で、すごく抵抗感ありつつですね、こう見つけることができたプロセスっていうのは、なんかとてもこう価値があったなと思いますし。なんかそうですね、感謝の念とかなんかこう安心感を抱いて生きていけそうだなっていう期待感とか、なんかそういうのが手に入れられたな、というそんな風に今聞いていて思ったという感じです。

そうですね。自分の喜びポイントはどこにあるのか、それを過去から探してみましょうっていうのは、ある意味正しいアプローチで、例えばそれこそ就職活動する学生さんが「自己分析しましょう」みたいなときでも、「自分の人生振り返って折れ線グラフで過去どこが楽しかったかとか振り返りましょう」みたいなことはします。

あれはあれで価値があって、「あ、そう、あの頃楽しかったし、こういうことやってる時は自分はすごい楽しかったんだな、幸せだったんだな」みたいなのはもちろんあるんですけど、今、私とTさんの間で話してることで言うと、さらにその前のタイミングの話みたいなところになるかもしれません。

結構これは、多くの人がそうなんですけど、例えば5歳ぐらいで、1つ何か心に蓋をするような体験がありましたと。別にそれ10歳でもいいんですけど、仮に5歳でだったとします。

で、そうすると本当はその蓋をする前の0歳から5歳のところに自分の純粋な喜びとか欲しいものとか好奇心とか情熱があるんだけども、そこはもう蓋をしちゃっているし、記憶として、0歳から5歳とかって呼び起こしづらいじゃないですか。

だから、さっき言ったよううな自分の人生を振り返りましょうという時間をとっても、ある種「この世はこういうもんだ」という解釈をする出来事がその5歳としてあって、その解釈をベースに「こういう処理の仕方が合理的だよね」とか「効率的だよね」とか「世の中をこう渡っていくためにはこれが必要だよね」ということの中ででしかやってない処理の仕方、喜びみたいなものをベースに探しちゃうということが、それはそれで起こるですよね。

多分、今言ってることは、今のTさんにはすごくよくわかると思います。

で、そうすると、これも今Tさんが言ってたように、でもじゃあその例えば5歳で何かがありました。それは自分にとって心に蓋をしたくなるような出来事でしたというのをほじくり返してですね、もう1回よく見てみようということをしないといけないのですが、それには抵抗があって当然なんですよね。

だって見たくない、辛かった。もうなかったことにしたいとか思い出したくないぐらい辛かったから、蓋をして処理をしてあるので、それをもう1回ほじくり返しにおこうよっていうのは、まあ普通に考えて抵抗が生じるの当然だし嫌だしちょっとしんどいしっていうのはあります。

あるんですけど、そこをちゃんと大人になった自分がもう1回ちゃんと向き合えると、宝の山が眠ってるじゃないですが、「あ、本当はこうだったんだ」みたいな自分の根っこにちゃんと繋がれるみたいな、そういうことが起こるんですよね。

というのが、自分も経験上とか、本とかで学んできたものとかも含めて、ある種の確信があって。だからTさんにもそこちょっと頑張って取り組んでみようよって言って、Tさんもある種、その話をいったん信じてみて、じゃあやってみますと頑張ってくれた。くれたというか、すごい頑張った、というようなプロセスだったのかなと思っています。

自分の思い込みを外すことで何か起こるのか

  • 無意識的に心に蓋をしていたりしていて、「~こうあるべき」「~こういうものだ」「~こうでないとダメだ」と処理していることがある
    ⇒この状態だと自分の本当にしたいことが見えなくなっていることも
  • 自分の思い込みをみつけて、外すプロセスは、なかなか大変だけど、その先に自然体でいられる自分がみつかるかも
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